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◆いにしえの浪漫街道、東海道を仮想ウォーク
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| 日本橋から京都・三条大橋まで494.4kmをウォーキング - 日本史マスターズ特別企画 - ◆東海道を仮想ウォーク『東海道ウォーキング』近頃、子供たちの肥満が徐々に増えてきています。ウォーキングは、子供たちを肥満から守る身近な手段として今注目されています。 しかし、ただ単に歩いているだけでは子供たちもすぐに飽きてしまうでしょう。「東海道ウォーキング」では、毎日の歩いた距離を入力することで東海道五十三次をネット上で旅しながら、少しだけ日本史も学べるブログパーツです。 この「東海道ウォーキング」をあなたのブログやHPに貼り、子供たちの肥満予防と健康管理をしましょう。 もちろん、メタボなお父さんにもお勧めします。 ◆『東海道ウォーキング』の使い方
下のアカウントは左のブログパーツのアカウントです。テスト用としてお使いください。 (※コメントは24字以内でお願いします。) ◇テスト用ID : b-1245922469115177173136 (※IDは自動入力されます。) ◇テスト用パスワード : tokaido53
◆東海道五十三次について東海道は、古くから都と東国を結ぶ街道として発達し、大和朝廷の律令制度のもとでは、中央政府と地方行政組織(五畿七道)を結ぶの駅伝制(交通・情報伝達制度)の確立とともに整備されてきました。箱根駅伝で有名な駅伝競走の「駅伝」も、この「駅伝制」から命名されました。ちなみに、最初の駅伝競争は、1917年4月27日に行われた讀賣新聞社主催による「東海道五十三次駅伝競走」とされています。京都の三条大橋を午後2時にスタートし、東京の上野不忍池までの23区間を約508kmを走り抜いて、ゴールしたのは翌々日の午前11時34分であったといいます。この駅伝競走を記念した碑が三条大橋と上野不忍池の近くに設置されています。 話は戻って、時代をさらに進めます。鎌倉時代に入り、東海道は鎌倉と京都を結ぶ最も重要な幹線道路となっていました。当時の街道沿いには、すでに宿屋を中心とした宿と呼ばれる集落が現れていたと言われています。平安時代末期になると律令制の弛緩に伴い「駅伝制」も次第に衰退して、戦国時代には馬の徴発により崩壊していましたが、江戸時代に入ると、天下を掌握した徳川家康により中山道・甲州道中・日光道中・奥州道中とともに五街道の一つとして一里塚が設けられ宿場が整えられて「伝馬制」がさらに整備されました。これらは、江戸の品川宿を第一宿とし、京都の大津宿まで五十三の宿場がもうけられたことから、これらが俗に「東海道五十三次」と呼ばれています。 東海道の総延長は、江戸日本橋から京都三条大橋まで約125里(約500キロメートル)あり、その道のりを昔の旅人は、朝4時頃に宿を発ち、夕方6時頃まで歩き、12〜15日間で歩ききったと言います。一日あたり約10里(39キロメートル)歩いた昔の旅人は、現代人と比べてとても健脚だったようです。 ◆1930年代の東海道 右の写真は1930年に、横浜から約48キロ離れた場所でニューヨーク州の教育局員が撮影したものです。東海道は、その昔、多くの旅人が歩いて往来することで発展してきましたが、1880年代に東京・神戸間の鉄道が初めて完成すると、次第に衰退していきました。 日本では1900年代初めには自動車生産が始まりましたが、1930年代頃はまだまだ少なく、道路事情も写真のように極めて悪い状況でした。日本で自動車が本格的に普及し始めたのは第二次大戦後になってからのことです。 写真:キエルト・ドゥイツコレクション
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◆坂本龍馬ゆかりの宿場町◆若き日の龍馬が過ごした町「品川宿」 日本橋を出発して最初の宿、「品川宿」は江戸の玄関口としてとても栄えていました。また、立会川沿いには土佐藩の下屋敷があり、山内容堂(豊信)や坂本龍馬が生活していた場所としても知られています。 1853年(嘉永6年)6月3日東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーは、4隻の黒船を率いて、突如浦賀港に現れました。ちょうどその時、剣術修行のため江戸の千葉道場に入門していた若干19歳の坂本龍馬は、黒船を目撃していたとも言われています。 その後、ペリーは一度帰国しましたが、翌1854年1月には7隻の戦艦に大砲128門を搭載した艦隊を率いて再びやってきました。土佐藩は幕府の了承を得て沿岸警備のため、下屋敷内の立会川河口に「浜川砲台」を築きます。若かりしころの坂本龍馬も土佐藩から沿岸警備の命令を受け、当地に着任していたと伝えられています。 現在、「浜川砲台跡」は、品川区東大井の京急本線「立会川」駅近くにあり、立会川商店街の児童公園の片隅に坂本龍馬の立像があります。
◆龍馬の妻「おりょう」と「神奈川宿」日本橋から品川・川崎についで三番目の宿場「神奈川宿」、幕末には横浜が開港されたことによって神奈川宿には多くの外国人が滞在していたと言います。 東海道五十三次「神奈川台之景」の中に、すこしわかりにくいですが、ちょうど坂をのぼったあたりに「さくらや」という腰掛茶屋が実名で看板も描かれています。この「さくらや」は、のちに「下田家」となり、それを晝間弥兵衛が買い取って1863年に「田中家」と名を改め、旅籠料理屋になりました。 この「田中家」は坂本龍馬の妻だったおりょうが、龍馬の死後、仲居として働いていたことで知られています。おりょうは龍馬の暗殺時に別の場所にいたため難を逃れ、その後、龍馬の姉の坂本乙女の元に身を寄せて暮らしますが、そりが合わずやがて放浪の旅に出ます。 そして、おりょうが辿り着いたのがこの「田中家」でした。 おりょうはこの田中屋で二年ほど働きました。それはそれは大変な人気であったそうです。 また、「田中家」は高杉晋作、高橋是清、大村益次郎、ハリスも訪れたことでも知られています。 |